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北海道

昆布巻き、生の昆布の佃煮は北海道でしかできない

秋田

ワカサギ油であげてから炊く

山形

いなごの佃煮、イナゴを佃煮にした昆虫食料理

関東

主として海産物の煮物、江戸前・佃島・大阪の佃村からきた人がつくった

信州

キャラブキ、ヤマブキ、イナゴ

北陸金沢

くるみの甘露煮

千葉・豊橋

いわしの甘露煮

三重

しぐれ蛤、牛しぐれ、海苔

滋賀

川魚の佃煮

大阪

昆布の佃煮(乾燥)

兵庫

イカナゴ、小女子の佃煮(生炊き)

瀬戸内

ちりめん山椒(佃煮)

高知

きくらげ

四国

海苔の佃煮

鹿児島

キビナゴ

 

 

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佃煮と時雨煮の歴史

「佃煮の日」6月29日

佃煮の日と桑名時雨煮の関わり

経緯

1582 年(天正10年) 6月2日 本能寺の変
泉州堺で信長が討たれたことを知った徳川家康は、本多忠勝、服部半蔵などわずかな手勢とともに、明智の手を逃れ本国三河へ命からがら逃げ帰りました。家康の生涯において大きなピンチのひとつで、「神君 伊賀越え」として有名なエピソードですが、その道中、大阪・住吉の神崎川にて大阪・佃村の漁民たちが、立ち往生していた家康一行に舟と、携帯食として小魚煮を差し出して、手助けしています。

本能寺の変画像

家康はこの時の恩義を忘れず、江戸入府にあたり、佃村の漁民を江戸に招いて手厚 く加護しました。漁民たちは、自分たちの地に郷里の佃村に因んで「佃島」と名付 けて住吉神社を建立し、漁に出られない時には小魚を煮込んだものを参拝客に振舞 いました。これが「佃煮」と呼ばれるようになったと言われています。 全国調理食品工業協同組合では、佃煮発祥の地の守り神「住吉神社」が建立された 6月29日を「佃煮の日」に制定、日本記念日協会により認定されています。

「伊賀越え」と
桑名との関わり

本能寺の変が起こった時、堺にいた家康が連れていたわずか 30数名の家臣の中に本多忠勝と服部半蔵がいました。 自刃も覚悟した家康を思い止まらせ、三河への帰国を説いたのは、本多忠勝だと言わ れています。また当時農民一揆の真っただ中であった伊賀国を通り抜ける際には、伊 賀出身の服部半蔵が先導役を果たしました。そんな「伊賀越え」の功労者は、その後、いずれも桑名と深い関わりを持ちます。

本多忠勝の画像本多忠勝の画像

本多忠勝

徳川四天王の一人
初代桑名藩主(1601年~)として城下町の基礎作りをしながら 晩年を桑名で過ごす。
桑名・浄土寺に眠る
(1600年・関ヶ原の戦いの戦勝祝いに貝新の祖が家康に蛤を献上したと 伝えられております)

服部半蔵の画像服部半蔵の画像

服部半蔵

息子の代から代々桑名藩士となる
12代目服部半蔵正義が桑名藩家老の時に戊辰戦争で活躍 桑名・顕本寺に眠る

佃村と桑名との関わり

桑名は古くから伊勢湾、木曽三川を利用した広域的な舟運の拠点港として栄えてい ました。東海道で熱田から桑名までの七里を舟で渡した「七里の渡し」は有名です。 廻船の船溜まりで、全国から多数の廻船業者が集まる桑名住吉浦に、1715 年、大阪・ 住吉神社の要請で、航海の安全を願い「住吉神社」が建立されました。桑名もまた大 阪・住吉との交易が盛んだったことが伺えます。

佃村と貝新との関わりは古く、秀吉の時代に遡ります。当時「貝新」の語源となった 貝屋の新之助たちは、蛤の貝殻を桑名から船積みし、大阪へ商いに出向いていまし た。(蛤の貝殻は、大阪では薬容器に、京都では化粧品容器や貝合わせに利用されて いました。) その船旅で新之助たちは、当時「煮蛤」と呼んでいた蛤の煮締めたものを携帯していましたが、その製法を大阪佃村の漁民に請われて伝授しました。後に それが、佃煮の発祥に繋がっていったといわれています。

一方、桑名の城下町は東海道の宿場町、お伊勢参りの玄関口として栄え、沿道には焼 蛤を売る店が立ち並んで『その手は桑名の焼きはまぐり』という洒落が出来るほどで した。そこで、旅人たちのお土産に「煮蛤」を広めようと考えた貝新の先祖は、俳聖・ 松尾芭蕉の高弟、各務支考にもっと良い名前はないかと相談。当時、蛤は10 月の時 雨の時期が一番美味しいと言われていたとの理由から「時雨はまぐり」と名付けられ ました。今では“浮かし炊き”という伝統的な炊き方をした佃煮を「時雨煮」と称して、 脈々と受け継がれています。